ひのえうま伝説 八百屋お七 – 江戸を歩く

丙午(ひのえうま)という言葉を知っていても、それがなんなのか正確に理解している人は高齢者を除くと少なくなっているかもしれない。
十二支(じゅうにし)や干支(かんし、えと)についても簡単には解説できない程ややこしいが、丙午は60年に一度。前回は1966年なので、次は2026年となる。
日本で丙午に関する迷信の元になっているのが、今回訪ねてみた八百屋お七である。

丙午について詳しく知りたい場合は、干支も含めこれを解説している書籍、サイトなどで勉強するのがよいだろう。

八百屋お七 円乗寺

八百屋お七は江戸本郷、八百屋太郎兵衛の娘。

現在の千葉県八千代市で寛文8年(1668年)生まれたとされる。後に江戸の八百屋太郎兵衛の養女となった。
天和2年、天和の大火でお七は現在本駒込にある吉祥寺か円乗寺に避難し、そこの寺小姓と恋仲となった。
寺小姓と再開を願い放火未遂を起こしたことから、鈴ヶ森刑場で火刑に処された。
遺体は千葉県八千代市の長妙寺に埋葬したと言われ、お墓もここにある。

駒込の円乗寺にもお墓はあり、今回はこの円乗寺とその周辺。品川区南大井にある鈴ヶ森刑場の跡を訪ねた。

八百屋お七 鈴ヶ森刑場跡


当然のことながら、駒込のあたりはいわゆるマンションの林立する普通の住宅街になっている。
八百屋跡は発見できなかったが、このあたりの旧地名をみると当時のことを思い起こさせるが、お寺くらいしか当時の物は残っていないらしくて残念ではある。
鈴ヶ森刑場は、当時江戸の入り口であった第一京浜の脇にあり、車や電車の音で少々騒がしいが、当時を忍ばす物が残っている。
近所の施設は鈴ヶ森という名称が残っているが、当時、刑場だったところ近くに住んだり勤めたりするのはどのような気分だろうか。
火に加えて、この近くの海で水磔(すいたく)なども行われていたとのことだが、それらはつい最近の140年前(1871年まで)で、その数は数十万と言われているのだからすごい世界である。

八百屋お七写真ギャラリー

メモ
天和の大火はお七火事とも言われる。
旧暦の天和3年3月29日没、1683年4月25日のことだが、3月29日は八百屋お七の日。
1666年生まれという説もあり、1666年は丙午で、丙午伝説はここから始まる。

これらの情報はWikipediaなどより。
http://en.wikipedia.org/wiki/Yaoya_Oshichi

八百屋お七 鈴ヶ森刑場跡